トップ・ページ(見出し)に戻る

2014
年4月タイ・ラオス・カンボジア旅行記 
     

4月9日朝7時半のタイ航空でウボン・ラチャタニに向かう。1時間の飛行8時半にはウボン到着。タクシー100バーツでラチャタニ・ホテルに行く。10分ほどで着く。チェックインしてみてあまりにシャビーなホテルなのでがっかりする。もっとも12000円強で朝飯付きだからこんなものだ。すぐに博物館に行く。ホテルから徒歩5分もかからない目と鼻の先みたいなところだ。スカンヤさんに本を渡そうと思ったら驚いたことに誰も彼女のことを知っている人間がいない。彼女はタイ美術局のウボンの考古学責任者だという。博物館を出たら40歳前後の気の利いた感じの女性職員が向こうからやってきたので試しに聞いてみると、スカンヤさんは別の事務所にいるからここではあまり知られていないが彼女は知っているというから、本を託した。

博物館は小さいがよく整っている。写真を撮っていると監督のおやじさんがフラッシュをたくなという。石像にフラッシュは関係ないだろうといったら規則だという。私のカメラはオートマチックだからどうしてもフラッシュがひとりでに出る仕掛けになっている。ここで御注目いただきたいのが左から2番目の坐像である。私はこれは仏像かと思ったら、さにあらず、ヨク見ると左半身には乳房があり、右半身にはそれがない。右半身はシヴァ神であり、左半身は女神でArdhanarishvaraというヒンドゥー神だという。同様のものはクメールにも残されている。ニューヨーク・メトロポリタン美術館にはブロンズ製のものがある。6世紀後半の作とされる。日本では知られていない(漢字の名前が付けられていない?)し、タイでもほとんど実例がないそうである。額にはシヴァ神独特の眼がついている。

外の廊下に石碑文が
3基あった。チトラセナについてのものだという。チトラセナはウボンにも勢力を張っていた証拠である。ムン川の右岸から見つかったという。チトラセナの碑文はシ・テェープにもある。
チトラセナは陸路の扶南の交易路を支配していたのだ。ここからメコン川はすぐ近くだ。さらにいうならばワット・プー(チャンパ・セク)をも支配していたといえるであろう。チトラセナとバヴァヴァルマン兄弟はワット・プー王国の王子であったという見方をClaude Jacquesはしている。このクロードの説はセデスの説とも一致している部分があるが、ではなぜ真臘の拠点がワット・プーというカンボジア国境から外れた現在のラオス領にあったかについては明快な説明は与えられていない。ヴィッカリーはワット・プー説を最初から否定している。

ウボン・ラチャタニの地形を飛行機の窓からみると、ムン川の河口に近いだけあって多くの三日月湖がみられる。上流から運んできた貨物の集積場だったことが窺われる。マレー半島通商路が開ける4世紀以前においてはスー・テップに集められた西方の貨物がチー川やムン川の水路を使ってこのあたりに集積され、さらにはメコン川を使ってオケオなどのメコン・デルタの港に運ばれたり、あるいはそのまま陸路で東方に向かいチャンパにまで運ばれたものと推測される。

ウボン・ラチャタニからワット・プーにかけての地域は古代の東西貿易の「陸の拠点」であったと考えられる。


ホテルにいったん引き揚げてWat Thung Si Muangの仏足跡を見に行く。これもホテルから近いとフロントの太ったお姉さんがいうので行ってみる。道の突き当たりに本やと雑貨を兼用している店があったのでウボンの地図を買いがてらお姉さんに聞くと、全然別の方向を教えてくれた。確かに古びた大きな寺があった。本堂のような大広間に入っていき居合わせた若い僧に聞くと誰も仏足跡のことは知らないという。一番奥にいたやや年長の僧に聞くと2つ先の建物だという。立派な白亜の建物の中に仏足跡はあった。長さ200㎝、幅90㎝の堂々たるものであった。1825年製。それ以前のものもあったに相違ないが伝わっていない。写真を撮り終わり、外で一休みしてからホテルに帰る。よい写真ができていたので聖光寺の小松さんに送る。外は暑くてこれ以上動けない。

スカンヤやさんが不在なので、1日予定を早めてパクセに行くことにする。宿代1泊分2000円はもちろん返ってこない。ホテルからパクセのResidence Sisouxなるホテルを予約する。ラオスへの国境越えはバスである。

410

8時半にタクシーを予約しておいたのに来ない。レセプションの太ったお姉さんが予約をしていなかった。それでも5分ぐらいでタクシーはやってきた。バス・ターミナルに着いたら9時半のバスは売り切れで次は10時だという。そのうち9時半の席が取れたという話を外で案内しているお姉さんが言いに来る。しかし、待てど暮らせど来ない。ようやく10時少し過ぎたころやってくる。荷物を預け乗り込む。1020分ごろ出発。ラオスも正月休み(ソンクラン)はタイと同じでそれぞれ大きな荷物をいくつもバスの胴体に格納して大騒ぎで出発。2時間ほどで国境につきまずタイ側の出国手続き、次いで徒歩で地下道をくぐりラオス側での入国手続き。手数料を50バーツよこせという。40バーツにあと10バーツたそうとしていたら40バーツでいいと、窓口の役人がいう。ラオスではタイ・バーツがそのまま通用することが後でわかった。

ものの
10分ほどでラオスに無事入国。全体が20分で済むとバスには書いてあるがその倍はかかった。ともかく乗客がルーズで買い物などしていて遅れてしまう。近くに露店がいくつも出ている。腹を膨らませた青っぽいカエルに黄な粉をまぶしたようなものを売っている。そのまま食うのか聞いたらそうだという答え。これには恐れ入った。生きたカエルをそのまま黄な粉をつけて食うなど私にはできない。その隣では何かのサナギを売っていた。パクセに着いたら2時少し前。バス・ターミナルには乗り合いバス(ソンテウ)が待ち受けている。行き先を告げて乗って待っているがなかなか出発しない。満員になって荷物をバスの上に山ほど積んでからの出発である。そこで30分近くロス。ホテルに着いたのは2時半ごろ。これでは到底その日のうちにワット・プー往復は無理。それではと「仏足跡寺」を目指すが、ここでも太った受付のお姉さんが嘘を教える。そのすぐ近くだというからトゥクトゥクに乗って行ってみた。誰も知らない。そこに知ったかぶりのマダムが居合わせ、すぐそこだと教えてくれる。確かに寺はあったがWat Luangで誰に聞いても仏足跡のことは知らない。そもそもそこは仏足跡寺ではなかったWat Luangなる名刹なのだ。

ホテルまで歩いて帰り、お姉さんに嘘を教えたなと言ったら、「ソーリー」とも言わず、ベテランのソンテウ(彼女はそれをタクシーといった)を呼んでくれた。それが
40歳台のトートさんだった。さっそく連れて行ってもらう。往復200バーツだという。10分ほどかけて、行ったら確かに仏足跡の建物らしきものはあった。敷地はやけに広いがほとんど誰もいない。若い坊さんに聞いたら仏足跡など知らないという。それらしき建物には鍵がかかっていて誰がカギを持っているかわからないという。どうにもならずホテルに戻る。最後の写真は「境界石」なのであろうか?パクセの人はいい加減な性格なのだろうか?あまりやる気がないらしい。


4月11日、

前日予約していたトゥクトゥクの運転手のタトウさんが朝7時半にやってくる。朝飯は7時からだという。5階の展望のいい部屋がレストランになっている。目玉焼き2個だけが乗った白米が出てきた。フランス・パンもあったが、それはおまけだという。梅干を2個いただく。白米はうまかった。7時半にチェックアウトしていった先は次の宿のパクセ・ホテルである。荷物だけ預けて念願のワット・プーに向かう。約50kmで1時間はかかった。往復2時間で40$、途中のガソリン代もこちら負担。ホテル経由で頼むと60$だそうだからこれでも割安ということだ。現地で入場料を12.5$とられた。途中は比較的よく舗装されていた。左手にメコン川が時々見えた。ワット・プーはメコン川に近いのである。経済的にも取引がこの地で盛んに行われたものと思われる。 水田もある。

ワット・プーの神殿の石段を登り終わり、さらにその上にある岩ペきに仏足跡を見た。かなり大きく長さは180㎝あった。中央には法輪ではなく卍が浮き彫りにされていた。水をかけて写真を撮った。私が軍手をしているのは途中で左右の岩につかまりながらここまで登ってきたためである。そこからやや右手方向に行くと象が彫られた大きな岩があった。

その近くに生贄を張り付けて首を切った場所と思われる、死刑台の岩があった。「ワニの岩」といわれるまことに不気味な形である。股を開き、両手を広げてくぼみに押し付けておいて、首を切ったものと思われる。真ん中のくぼみは流れる血を受け止めたと思われる。じっと見ていると寒気がする。これはいったいどういう宗教がかかわっていたのであろうか?時代からするとヒンヅゥー教かもしれないが、かなり野蛮な儀式である。さすがに後の大乗仏教の時代にはこんあ悪習はなくなったはずである。『梁書』真臘の条に「城東有神名婆多利,祭用人肉。其王年別殺人,以夜祀禱,亦有守衞者千人」とあり、毎年、この生贄の儀式を行っていたとある。場所はどこかは特定できないが、少なくとも真臘の王はこのような儀式を行っていた可能性がある。Ba Phnomでは1877年までこのような人身御供がシヴァ神の妻のために行われていたという。(David Chandler, "A History of Cambodia, 4th, p23)

ワット・プーは確かに最も古い交易の中継地であったことは間違いない。この中継点まで運ばれた西方の物産はメコン川を下り、オケオに運ばれ、また一部はチャンパにも運ばれたものと思われる。特にチャンパに海からの仕入れが困難であり(チャイヤーまで出かけていた)チャンパ(林邑)とってはこの中継点が西方(インド)の財貨の最も重要な「仕入」のための拠点であり、チャンパ・セクという地名からして、この地域を支配下に置いていた時期もかなり長かったものと思われる。ジャヤヴァルマン2世がこの地をカンボジア制圧の出発点としたというセデスの説はヴィッカリー等によって否定されたが、この地が需要な交易中継点であったことは間違いない。また、ウボン・ラチャタニのところで触れたように、この辺りは「陸の扶南」にとっても重要な交易中継点であり、チトラセナ(後のマヘンドラヴァルマン)が軍の司令官としてこの地を支配していたものとおもわれる。ウボンの博物館にチトラセナの碑文が3点も保管されているところを見ても、相当この地域は重要視されていたことが窺われる。

4月12

パクセからラオス航空機でシエム・レアップまで移動した。料金は6000バーツ(約2万円)であった。1時間足らずの飛行であった。乗客は半分以下しか載っていない。ほとんどが白人であった。バスの国際便もあったが、10時間はかかるという。悪路を半日もバスに乗る元気がないので、飛行機にした。バスならメコン川をかなり見られたはずである。シエム・レアップについてからが大変であった。きれいな空港であったが、ビザが必要だというのでまず20ドルとられた。ラオスはタダであった。写真もよこせという。幸い国際運転免許を取った時の残りがあったのでそれを差し出した。見ると役人が横1列に5人ほど座っていて、一人一人が「ビザ申請書」を入念にチェックしている。一種の雇用対策である。カンボジアではそうでもしないとインテリの職場が確保できないのであろう。

飛行場を出ようとすると「両替所」があった。これが飛んでもない曲者で1万円出すと32万リエルしかくれない。1ドル=4000リエルだから20%近く手数料をとる。1万円なら38~9万リエルのはずである。タイの空港も両替の率が悪いので有名だが、町の相場に比べせいぜい3%くらいのものだ。タラ・ホテル(Tara Angkor Hotel)まではタクシーで6ドルとこれは安かった。タラ・ホテルは朝飯付きで5000円ほどだったが、こんないいホテルにこの値段とは驚きである。バンコクでは8000円は取られる。おまけに若くて美人の日本人の女性がフロントにいた。(別に日本人男性マネージャーもいた。)1週間ぶりくらいに日本語で会話する。彼女にカンボジアでの通貨事情を教えられた。要するにここはドル本位制の国なのである。町のレストランもメニューはドルで値段が書かれている。ドルのT/Cは通用しないという。これに参った。さっそく近くのATMに出かけたら、1回につき手数料を5ドルいただくと書いてある。カンボジアでの第1印象は最悪であった。ただし、しかるべき準備(1ドル札を大量に用意していくとか)をしていけば別にどういうことはない。夜店の屋台もトライしたが、あまりお勧めはできない。レストランの飯も高くはないが、あまり大したことはない。タラ・ホテルの食事がベストであった。

CitiBankのカードで試したら暗証番号が間違いらしく通用しない。次にSAISONカードのAMEXを試したがこれもだめ。最後の切り札「りそな銀行のVISAカード」でようやくOK。こうなると俄然強気になってしまい、500ドルほど引き出して使いまくった(?)。

ホテルにはカンボジアの国立歴史研究所に務めるキュー・チャン(Khieu Chan)さんがお子様連れで訪ねてきてくれる。英語版の「シュリヴィジャヤ史」を2冊渡す。キュー・チャン氏とは初対面であったがFBでの友達で、私のタイの友人とは知り合いが多い。さっそく旅程の打ち合わせである。彼は時間があれば案内してくれると申し出てくれたが、勤務を優先してくれるようにお願いした。FBで毎晩のように連絡したが、ともかく大いに助かった。私はほかにカンボジア人の知り合いはいない。本のお礼が彼の上司にあたる人からEメールできた。義理堅い人たちなのであろう。タイの日本人でも本を差し上げてもEメールに返事もよこさない人もいた。ともかくカンボジアに旅行する人はドル札(特に1ドル、5ドル)を多く持っていくことをお勧めする。両替商にはあまりお目にかからなかった。

4月13日以降はホテルの脇に待機しているトゥク・トゥクを3日間利用した。ワッワ(Vavva)さんという比較的真面目な中年の運転手だった。朝7時半ごろホテルを出て、トクトクのたまり場に行くと親分格のワッワさんがいてアンコール・ワットに行かないかという。途中で3日間通用の入場券を40ドルで買う。いざ買おうと思ったら。ポケットの財布がない。するとワッワさんが私の財布が座席に落ちていたといって届けてくれた。大助かりである。質の悪い運転手だったらそのままネコババである。8時ごろ現場に着いたら蜿蜒長蛇の列でアンコール・ワットの入り口まで2Kmほど歩かなければならない。ようやくたどり着いて回廊を回ったり、塔の上まで階段を上がったりしているうちに完全にグロッキーになってしまった。よせばよいのにアンコール・ワットの裏手に回り全景の写真まで撮った。

また帰りが一苦労でようやく最初の地点に戻ったときはホテルに帰りたくなった。勇を鼓して次のプノム・バカイン(Phnom Bakeng)に向かう。ヤショヴァルマン(Yasovarman;889-910年)時代に建設されたものでヒンドゥー教徒の聖山(メル山)になぞらえたといわれる。さほど高い山ではないが、現在はアンコール・ワットにかかる日没の光景を見るために観光客に人気があるという。
私はもちろん日没などみて感動するタイプの人間ではないので昼間だけでご勘弁願った。この頂上の写真を撮るように聖光寺の小松さんから頼まれていたので何とか回り灯籠のような赤土の広い山道をダラダラと登った。山の高さはせいぜい100メートル前後で「丘」という感じであったがラセン状の山道は数キロあった。途中にはオートバイに乗った警官が1名いた。誰も登っているものはいなかった。頂上には番人が2人ほどいた。ここからはまた石段である。一番下に牛(シヴァ神の乗り物として知られるナンディン)の置物があり頂上にはリンガが2基あった。祠堂の中は何もなかったがリンガとヨニが置かれていたことは間違いない。ここはシヴァ神を祀る祭壇なのである。

プノム・バケン(キュー・チャンはバカインという発音が正しいのだといっていた)で今日は終わりにしようと思ったが、近くに仏足跡があるというキュー・チャンの話だったので、それ見に行こうとしたが結局見つからなかった(写真を見る限りかなり大判のもので飾りは少ない)。運転手も近くの人も仏足石のことは知らないのだ。返す返すも残念だったが、案内人が知らないのであればどうにもならない。運転手とは
15ドルの契約だったが財布のこともあり20ドル支払った。アンコール・ワットは無数の壁画(浮彫)があり、写真も撮ったが、戦争の図柄がほとんどで、個々の場面の説明は全くできないので、ここでは掲載しない。ヒンドゥー神像もあったが、仏像のほうが今ははるかに重視されているようだ。
最下段の仏足跡の写真はプノン・バケンの近くにあるもので友人のキュー・チャンさんが撮影して送ってくれたものである。当日は運転手も場所がわからず、撮影できなかった。

14

シエム・レアップの町から50Kmほど北方のプノン・クーレン(Phnom Kulen)まで出かけた。運転手は渋っていたが往復45ドルで行ってもらうことにした。途中から舗装がなくなりモウモウたる土煙の中を前進した。出かける前に町中のトラベル・エイジェントで20ドルで入場券を買わされた。それもカンボジア正月(タイ、ラオスと同じ時期)で休みが多く4軒目で入手した。

プノン・クーレンの山の入り口に検問所があり、そこから先はトクトクの荷台を外し、今度はオートバイ・タクシーに早変わりをして山道を登った。最初は少しだけ舗装があったがあとはでこぼこの未舗装道路であった。4輪車はそのまま通行可であったが、これではトクトクはさすがに無理である。ようやく目的地に着くと、滝があり、そこで地元の人々が大勢水浴びをしたりして楽しんでいた。外国人はほとんどいない。そこから少し移動したところにプノン・クーレンの遺跡があった。岩の上に小屋がかけてあり、そこの大きな寝釈迦があった。階段の途中は参拝客で満員であった。その下に祠堂があり、仏像が祀られており、坊さんがニギヤカにお経をあげ、大勢の信者がお祈りをしていた。その手前に1.8mの仏足跡があり、お賽銭がまき散らされてあった。地元の人は仏足跡を誰も知らず、観光ガイドのインテリそうな娘さんが教えてくれた。そのガイドさんが居なければ仏足跡も見逃し、空しく帰途につくところであった。みどころはそれだけであった。そこには白人の観光客が若干いた。往復5時間ほどかかった。

単に史跡を見に行っただけに終わった。クーレンは山の要塞である。ここから人民に号令をかけ支配するような場所ではなかったであろう。ここでジャヤヴァルマン2世が「ジャワからの独立宣言」をしたというが、どうも眉唾である。しかし、ここは要塞として多数の兵員を置いておける。それは上述のごとく水量豊かな滝があるからである。あとは米さえ運び込めば地形からして容易に敵の攻撃に耐えうるであろう。山のふもとは豊かな水田地帯である。

帰途も土煙をいやというほど浴びてシエム・レアップに帰還。50ドル運転手に支払う。あまりにヒドイ旅程であった。2度と行ってみようとは思わない場所である。


4月15

バイヨン、アンコール・トム、タ・プローム(ガジュマルの根が構造物にからむ)、バンテアイ・クディ(上智大調査団が捨てられた仏像多数を発見した)からロリュオス(Preah KoとBakong)まで足を延ばした。バイロンは塔や人面の装飾のかたまりであり、あまりにも有名で多くの写真集で見る通りである。アンコール・トムはかなりだだっ広い。バンテアイ・クデイはかなり大きな寺院であるが、由来ははっきりしていないようである。内部はかなり荒れていた。ジャヤヴァルマン7世が規模を拡大したものと伝えられる。

バイヨン(Bayon) 大乗仏教の寺院、観世音菩薩像など人面像豊、壁画はアンコール・ワットよりも彫りが深い。12世紀末、ジャヤヴァルマン7世の造営。アンコール・トムの心臓部にあたる。




アンコール・トム(Angkor Thom=巨大都市)8メートルのラテライトの城壁に囲まれている(1片km)、ヤショダラプラ(9世紀末)の後にジャヤヴァルマン7世が建設した。大乗仏教の遺跡。



タ・プローム(Ta Prom)



パンテアイ・クディ(Banteay Kdei)







そこからかなり離れた場所にあったRoluos(ロリュオス)までいった。シエム・レアップから15Kmほど離れたかなり遠いのに日本人の
2人連れの初老のご婦人が見に来ていた。ツアーのコースに入っていたものであろう。プレア・コー(Preah Ko=聖なる牛という意味)寺院の塔が6基あり、中にはヨニの残骸があった。ここはインドラヴァルマン1世(877~889年)が築いたヒンドゥー教徒の寺院なのである。シヴァ神の乗り物の聖牛(ナンディン)の像が3体置かれていた。3基の塔が2列に並んでいた。前列の中央の塔はParamesvara(最高の神)すなわちジャヤヴァルマン2世に捧げられたものであり、後ろは彼の妃ダラニンドラデヴィ(Dharanindradevi)の塔であると説明されている。

その北隣は扶南本国最後の王のルドラヴァルマン(Rudravarman,諡Rudresvara)の物であり、その後部の塔は彼の妃のものである。南隣インドラヴァルマンの両親すなわち父Prthivindravarman(インドラヴァルマンの諡)とその後方は彼の妃(Prthivindradevi)の塔である。インドラヴァルマン王は扶南王統の正統な後継者であり、ジャヤヴァルマン2世の直系であることを誇示したのがこのプレア・コー寺院なのである。



少し離れた同じ地域にピラミッド型の祭殿(Bakong=バコン)があり、そこにも行ってみた。ロリュオスは一時ジャヤヴァルマン2世がここを都とし、のちにジャヤヴァルマン3世(835~877年)とインドラヴァルマン1世(877~889年)がここに本拠を置き、主要な構築物を築いたとされる。この地の構造物(とくに階段付きの塔)が後のアンコール地区の多数の塔のモデルとなったとされる。当時はハリハラジャヤ(Hariharajaya)と呼ばれていた。いうまでもなくハリハラ神(シヴァとヴィシュヌの合体神)の都という意味で、ジャヤヴァルマン2世にちなんだ呼称である。





帰りにシエム・レアップの国立博物館にい寄った。実に見事な博物館である。撮影禁止ではあったが、それに気づくまでにヴィシュヌ像等何枚が撮影してしまった。左から4枚目の女神像はDeviと呼ばれるシヴァ神の夫人であろう。同様の像はニューヨーク・メトロポリタン美術館に所蔵されている。最後に千体の仏像のホールに仏足跡があったのを撮影していたところで監視の娘さんに止められてしまった。像の出自がメモできなかったのは残念の極みであった。シエム・レアップはほかにも見所があるが、今回はこれでおしまいにした。
25ドル運転手に支払う。




4月16

プノンペンまでバスで移動の日である。バスは7時半発で12ドル、エアコン・トイレ付というふれこみである。6時半にトクトクにホテルにきてくれと頼んでおいたが、635分に出てみると来ていない。ホテルのチェックアウトが5分遅れたせいではないであろう。もう一人の若い運転手にクメール交通のバス乗り場まで連れて行ってもらう。5ドル。着いたらおんぼろバスが待っていた。7時半発の予定が15分ほど遅れて発車。雰囲気の悪い学生風の若いアンちゃんが隣に乗ってくる。腕を組み股を広げ、こちらの領域に侵入してくる。あいている席に避難したが、そこにも客が来て、結局元の席に戻る。仕方がないので学生風のアンちゃんに文句をつけこちらの正当な領域を確保する。カンボジア人も他人の迷惑など意に介さない輩がいることが分かった。4時間ほどで休憩地につきいったん休息。その後プノンペンまでがたがた道を走る。都合6時間で到着した。

国道があんなに荒れていることは政治の不在を物語る。予算がないこともあろうが、第
1級の国道があれだけ荒れている国もすくないだろう。終点からトクトクで4ドルでホテルに着く。King Grand Butique Hotelである。Agodaでは8.3ポイントが付いていてまずまずのホテルのはずだったが、雰囲気が悪く、単なる安宿であった。それでも15千円も取られた。エレベーターが2人乗るのがヤットの狭さ。1階から乗るのに20センチほどの段差がついている。冷蔵庫は全く冷えない。部屋は狭い。シャワーだけである。前の道が狭くゴミのにおいがする。朝食は品数が少なくお粗末。ただし、王宮には歩いて行ける距離。時間があったので国立博物館に行ってみた。ここも撮影禁止だったが、ご注意を受けるまでに主なものを住まい撮影してしまった。最後から3枚目のヴィシュヌ像はもともとアンコール・ボレイの博物館にあったものでヴィシュヌ像としては世界最高の作品である。背丈も2.8mとずば抜けて高い。最後の写真は青銅の横たわるヴィシュヌ像でアンコール地区(東メボン)にあったものである。へその辺りから水が噴き出す仕掛けになっていたという。この話は周達観が『真臘風土記』で記録しています。1296-7年の実見録です。

17

憧れのアンコール・ボレイに行く。朝7時ごろホテルを出てモーターサイに乗りバス停に行ってくれと頼んだ。ところがそこからはタケオ行のバスなど出ていない。運転手は別の国際線のバス停まで連れて行ってくれた。しかし、そこにもタケオ行のバスなどない。困っているとトクトクの運転手が声をかけてきてタケオに行くなら「タクシーをシェアーして」行けという。その場所はかなり離れているといって5ドルとられる。金色の仏塔のある寺が目印で、そこがタケオ行のシェアー・タクシーのたまり場なのだ。一台に客を6人乗せるという。助手席は2人乗るので、そこがよければ2人分15ドルを払えという。どうも1人5ドルらしい。私は外国人とみて余計にとられたようだ。タケオまでは1時間半ほどかかったが、その前にタクシーが満員になるまで発車しないのには参った。40分間は待たされた。

タケオについてアンコール・ボレイ行きの船着き場まで連れて行けといったら、その運転手はアンコール・ボレイという名の民宿に案内してくれた。船着場を運転手は知らないのだ。運転手も本部かどこかに電話をしてようやく場所を突き止め、船着き場にたどり着いた。

そこにはマレーシアのアヌワール元首相に似た、若い船頭がいた。片道20ドルだという。往復で30ドルと聞いていたので高いというと帰りは10ドルでいいという。その代りローカルの人を相乗りさせていいかという。相乗りはせいぜい2-3人だろうと思ってOKしたら、次々にやってきて合計12-3人になり、ボートは満員で船べり近くまで水が来てとんでもないことになった。走り出して1時間以上かけ、ようやくアンコール・ボレイにたどり着いた。向こうから船が来ると波をかぶり水しぶきがボートに入ってくまことに剣呑な舟であった。

着いたところは単なる自然堤防であり、舳を直角に直進させ、乗り上げさせておいて乗客をそこから飛び降りるという新石器時代からの伝統的な船着き場だ。飛び降りて水はのがれたが、
2-3歩歩いて右の膝の内側の筋を伸ばしてしまった。肉離れではなかったので内出血はしていないが痛みは数日のこった。船着き場のすぐ近くに目指す博物館があった。そこまでは船頭の親類と思しき少年がオートバイで案内してくれた。行ってみると玄関に鍵がかかっている。すると数分してして係りの若い女が駆けつけてきて鍵を開けてくれた。入場料は1ドルだった。中は狭く、大した置物はない。パンフレットもない。目指すブッダの頭もない。ここには昔と違って大したものは何もないのだ。めぼしいものはプノンペンやシエム・レアップにもっていかれてしまったのだ。そのうち館長という40代半ばくらいの男がバイクで駆けつけてきた。彼も私に説明するようなものはない。近くの扶南時代からの仏教寺院に案内してくれた。新しく改造された寺院に比較的大きな仏像があったが、顔は新しかった。古い仏像であったが誰かが頭を盗んでいったという。

先ほどの少年がこれからオートバイでプノム・ダ(Phnom Da)まで連れて行くという。往復3ドルだという。ともかく行かないわけにはいかないのでオートバイの荷台に腰掛ける。ところが舗装は一切なく石ころだらけの道を3.5Kmほどガタガタ揺られながらやっとの思いで20分ほどかけてプノム・ダに到着する。まさに地獄の苦痛である。入り口で5ドルとられる。かれらは物好きな外人客から金をふんだくる以外に大した収入がないのだろう。わずか100段足らずの石段だったが、登るのに大変難儀した。低い石段を4つん這いで登って行った。途中で例の少年がリュックを持ってくれた。山頂には大きな石造りの4角のお堂があり、そこにはかつて巨大なリンガとヨニが飾られていたに相違ない。もとはプノンペン国立博物館で展示されている2.8mほどの巨大ヴィシュヌ像が飾られていた。それが近年この祠堂の地下から発掘されたのだという。ここは概してヒンドゥー教の信仰の場であった。仏教はアンコール・ボレイのほうに遺物が集中しているようだ。少年にはリュックも持ってもらったし、10ドル渡した。それにしてもわが尾底骨は連日の災難に遭遇している。 それにしてもアンコール・ボレイにしてもプノム・ダにしても扶南の首都であったことをしのぶよすがさえなかった。あの見事なヴィシュヌ像はいったい誰が作らせたのであろうか?長らく山の上の大塔の地下に埋められていたと教えてくれた人がいたが後に仏教が全盛になると、ヴィシュヌ像は目障りになったので地下に埋められてしまったのかもしれない。シエム・レアップのバンテアイ・クディでは仏像が地下に埋められ、ここではヴィシュヌ像が地下に埋められていたという。

帰りのボートは地元民は3人ほどであった。船頭は私から既定の料金をとり、ついでに地元民からは1ドルかを別にとったに相違ない。オケオについてからプノンペンに帰るタクシーが今度はいないという。1台だけあるが、相乗り客がいないので40ドル出せという。ところがタクシーには若い女が2人乗っていた。あれはなんだと聞くと運転手の妹だという。嘘に決まっているがプノンペンまで帰るのが先だから黙っていた。ところがプノンペンに着いたらこの運転手は王宮の場所を知らないというのだ。ともかく散々な1日であった。アンコール・ボレイなど2度と行くところではない。ただし、アンコール・ボレイという土地は見ることができた。ほとんどすべての土地がよく耕されていた。農業用水にも恵まれ、古代からの稲作地であったことを窺わせる。

4月18

アンコール・ボレイから帰った疲れは残っていたが、国立図書館に著書を寄付しようと思って行ったら、正月休みで休みだという。途中で仏教寺院(Wat Phnom)を見てから国立博物館に行った。猛暑で朝からアップアップの体たらくであり、水を飲んで一休み。ここにも学芸員は出勤していない。全体に役人は弛んでいるというか役人天国というかそうアクセク働かない印象である。ホテルで一休みしてから王宮見物に出かける。大形の仏足跡(10mX5m)を見ることができた。おそらくこれは20世紀の作品ではなかろうか?ここだけは撮影OKだが、他はほとんどだめ。もうひとつ仏足跡があるはずなのだが、それらしき建物はない。

4月19日は午前にデムコー・マーケットの骨屋市にまで行ってみる。仏像や焼き物など売っていたが、物欲のない私には買いたいものなど無論なし。人影もまばら。



4月20日
朝10時30分初のバンコク・エアーでバンコクに帰る。ホテルは最初に泊まったスクムヴィット・ソイ15のRoyal President Hotelである。マカッサン駅でタクシーを待っていたらトゥク・トゥクが来たので、それに乗る。100バーツであった。昼ごろホテルにはいり、午後からコイン・ランドリーで洗濯。

4月21日はナワタニ・ゴルフ・コースに1年ぶりに出かける。

4月22日は日本亭でピリヤ先生と昼食。話題は尽きず。私の扶南王朝のチャイヤー亡命説はご理解いただけた模様。

4月23日は午前中に再度バンコク国立博物館に行く。日本人のご婦人たちが,博物館の案内をボランテアーでやっていて、私に案内してくれるという。こちらが案内しますよと言っていたら、目を白黒させていた。歴史年表はを見せてくれたのでみあtら、「堕和羅鉢底(ドワラワティ)」からタイの歴史は始まっていると書いてある。その前の「シュリヴィジャヤの歴史」は?と聞くと誰も答えられない。チャイヤーこそが室利仏逝だったのですよといっても、どうやら反応を示したのは一人だけ。すでに日本人会には「シュリヴィジャヤの謎」などを寄贈しているのに、なくなってしまたのだろうか?「歴史」のほうは確かに「商工会議所」に置いてあるからお読みくださいといってきた。

今回バンコク博物館では所蔵の大型仏足跡3個が展示されていた。最初の石作り(ピンクの花崗岩)のものはアユタヤ(もともとはWat Phra Ramにあった)から出たもの。中央部に大きな法輪があり、そこから割れてしまっている。サイズは2.2mX0.9m、Borommakot王(1733~1758年)時代の作。

次の2枚はカンペンペット(スコタイのやや南)からもってきたものである。真ん中の台に載せてあるのはWat Sadetにあったものである。立てかけてあるものは国宝級でかつて日本でも展示されたことがある。ただし、下3分の1ほどが欠損してしまっている。青銅製である。

アユタヤ時代には上座部仏教がいわば「国家宗教」として奨励され、その普及の手段として各地の村々に仏教寺院が検察され、また多くの仏足跡が作成された。それらは長さが1.2~1.8メートルとほぼ決まっており、中央に法輪が得あg彼、それを108個の吉祥門が取り囲み、升目の中に収められているスタイルが全国的に普及した。中には上記3点のようにさらに大型のものが作られた。